人生と人生観。そして、人生観図


icon-adjust 子供からの質問を真に受けてみる

子供から親への質問には大きく二種類あります。

⑴「答えのある質問」:「あれは何ていう果物なの?」、「トーチャンはなぜ早起きするの?」、「満月はいつなの?」、「アメリカはどこなの?」、「この瓶はどうやって開けるの?」といったシンプルな疑問です。親が知っているなら、即答できます。たとえ知らなくても、調べれば答えられます。グーグルなら本人に検索させても、聞きたいことにたどり着くような質問とも言えます。

「答えのある質問」は、ますますネット世界が答えてくれます。質問が少々複雑になったとしても、また、問い方が抽象的だとしても、答えがある限りAIが応答してくれるようになるでしょう。父が物知りである意義はほとんどない時代に向かっているのです。「パパは何でも知っている」は完全な死語です。

 

⑵「答えのない質問」:「人は死んだらどうなるの?」、「お金はどうして大切なの?」、「なぜ私は女なの?」、といったモヤモヤさせられる疑問です。親であろうがなかろうが、なかなか即答できない問いです。子供からのストレートな質問は特にドギマギしてしまいますね。調べても答えられないので、どこなで自分の生き様から答えを捻出せねばならないような質問たちです。

それにしても、「答えのない質問」は、ますます面倒臭いものとなっていきますなあ。悲しいかな、どこの父も母も忙しいのです。こちらをちょっと立ち止まらせるような子供からの投げかけは、道で誰かにアンケートに答えてくださいと声を掛けられるぐらいのうんざり感があるのです。しかしながら、ハツチチ50としては、こここそ遅父の出番ではないかと確信しております。なぜなら、これらの質問に答えよう試みるためには、父が自分の人生観を垣間見せねばならないからです。

で、この鬱陶しさを厭わず、「じゃあ、人生観を積極的に見せてみようじゃないか!」というのがここでのテーマなのです。

 

icon-adjust 人生観とは何なんだろう?

さて、ここで言う人生観は以下のような定義で使います。

「人生観」=生き方についての見方、解釈の仕方、行動の傾向。

続いて、人生観が人生とどう関わっているのかを考えてみます。息づいている「今の自分」こそが人生です。ならば、この人生と人生観はどのように絡んでいくのでしょうか?

 

【思想図1】に示されるように、「今の自分」は過去の記憶である「今までの生き方」と未来への期待である「これからの生き方」がちょうど交わる場所です。繰り返すようですが、人生観とはここ(=人生)に折り合いをつけるように迫られた時、自分の中に浮き上がってくる生き方への見方、解釈の仕方、行動の傾向なのです。

今までの生き方が作り上げた人生観は見た目は強固ですが、その実、蜃気楼のようにつかみどころのないものです。特に、新たな人生経験によって、大なり小なり日々「ゆらぎ」ます。たとえば、不意に体調を崩し、入院を余儀なくされたりすると、「自分はいつも健康体である」という見方は否定され、身体に関する人生観を再考させられます。また、ショックな出来事と言えば、仲の良い友人が若くして亡くなるという経験はその一つではないでしょうか。(小生も複数あります)「何が生死を分けるのか、存在がなくなるという事実にどう向き合えばいいのか」などと、死や生に関する人生観がリメイクされます。

同様に、これからの生き方と人生観が直線にあるように見えても、やはり、出来事によって「ゆらぎ」が起きて、断線するような事態に陥ったりします。たとえば、勤務していた会社が業績不振となり、リストラによって自分の雇用が危うくなると、定年までを見据えていた生活展望は否定され、終身雇用を前提にしていた人生観を再考させられるのです。

私たちは静的で落ち着きのある、一貫した人生観を持っていることが望ましいと思いがちです。そのほうが人は生きるのが楽になる気がするからでしょう。そもそも人生観などという単語からは無縁の生活を願っているのです。あぁ、なんと残念なことに、必ず人生観を揺さぶる「ゆらぎ」がやってきます。そして、振動板である人生観の存在に気がつき、ついには、人生観自体を改変させられることになるのでした。そう、「ゆらぎ」に晒されてはダイナミックに動くものが人生観なのです。

ですから、「人生観が確固たる人」なんていないのです、というか、同じままでは存在できないのです。人生がノンフィクションなら、その足跡が築く人生観はフィクションでしかありません。もちろん、人生経歴が長くなればなるほど、人生観のリアリティ度合いは増していきます。これは「ゆらぎ」のある出来事が起きるたびに、人生観と人生の間にある隙間が埋まるように修正され、統合されていくからです。きっとそこにしか、いや、そこにこそか?、長く生きるがゆえに起きる「悩ましい出来事」を受け入れる意味が無いのかもしれません。

 

 icon-adjust 人生観の見取り図、人生観図

【思想図2】はヤスハラの人生観を見取り図にしたものです。(正直、見せるほうも恥ずかしいんですよ。自分の愛用した下着をインスタグラムにアップするような気分w)この見取り図を人生観図と呼んでおきましょう。

たぶん、誰でも50年以上生きていると、こういった人生観のありがたさも感じているのではないでしょうか。ええ、いいところあるんですよ。たとえ、虚構の部分が多く含んだものだと分かっていても、「今の自分」に判断の効率を上げてくれたり、行動の選択肢を絞り込んでくれる意味合いは決して小さくないのです。ならば、それを人生観図にするということも意味深い作業ではないでしょうか。

それでは本題に入っていきます。小生が主張している人生観図がどのようなものかを解説します。

 

こうやって図示すると、人生観がどんな要素で出来上がっているのか対峙することができます。大切に思っている観点のリストを整理したものとも言えます。モヤモヤの源泉でもあります。もちろん、これはヤスハラのものでしかありませんから、あなたが人生観図を創ったらまったく異なるものになるでしょう。観点の内容だけでなく、個数や配置も変わるはずです。あくまでも個人的な人生観の内なる眺めです。おまけに流動的ですからね。明日になれば「あっ!、やっぱ、こっち」なんて変更してるかもしれません。ちなみに、こういった図を最初に描いたのが、忘れもしない39歳の時です。40歳という大台に向かってモヤモヤが頂点に達していた頃です。独身だったし、会社員でもあったし、ということで、現行の人生観図よりは素朴だった気がします。(すんません、現存してません!)

自分が自分のために策定した人生観図をもとに、少し人生観の中身を解説をします。個人間の相違は必ずあるとしても、大まかには重なるところが誰にもあるのではないでしょうか。

大きく9観点です。二軸で区分され、全体の人生観を構成しています。

一つの軸はBody「からだ」-Mind「こころ」-Soul「たましい」この分類は生活実感があるので好んで使っている整理軸です。真善美に近いものがありますね。三位一体なので、円環を作る事ができます。

もう一つが、一人称「わたし」ー二人称「あなた」ー三人称「わたしたち」という自分と対象との距離感での区分です。こちらは空間的な広がりも含むので、内から外への同心円でまとめることができます。

1:身体観(B−1) 身体から派生する自分の生き方への見方、解釈、態度です。この下層にあるのは、主要なものとして3つ(3でまとめる志向も人生観の一部に違いないw)挙げるとすれば、食事や運動などに関するもの(=「健康観」)、容姿や運動神経などに関するもの(=「特性観」)、成人して老化していく体に関するもの(=「加齢観」)があります。

2:男女観(B−2) 性別から派生する自分の生き方への見方、解釈、態度です。同様に、下層にありのが、自分が男性として生まれているので女性との違いに関するもの(=性差観)、相手を好きになる恋するといったことに関するもの(=恋愛観)、セックスをはじめとする性志向に関するもの(=性愛観)が主なものではないでしょうか。

3:家族観(B−3) 原初的な人間関係から派生する自分の生き方への見方、解釈、態度です。主要なものとして、結婚による人間関係に関するもの(=「夫婦観」)、自分の子供、または、自分の親との人間関係に関するもの(=「親子観」)、先祖を含めて親戚やらの人間関係に関するもの(=「血縁観」)があります。

4:価値観(M−1) 何に優先順位の高さを心が感じて生きていくのかへの見方、解釈、態度です。安全ややすらぎといった静的な心地よさに関するもの(=「安心観」)、楽しさや開放 といった動的な心地よさに関するもの(=「自由観」)、希望や満足といった望ましい状態に関するもの(=「幸福観」)がありそうです。

5:役割観(M−2) 組織や集団の中での自分の生き方への見方、解釈、態度です。働くこと(家庭内の家事も含めた)に関するもの(=「仕事観」)、学ぶこと(学校に限らず独習も含めた)に観するもの(=「学習観」)、集団の中のヒエラルキーと自分の関わりに関するもの(=「上下観」)が主要なものと考えてます。

6:社会観(M−3) 学校、会社、国家、また、諸々のコミュニティと自分の関わり方への見方、解釈、態度です。自分が所属(または対立)している集団の境界線に関するもの(=「内外観」)、生活のエネルギーであるお金に関するもの(=「金銭観」)、集団が持つビジョンやそこでの行為への良し悪しに関するもの(=「正悪観」)などが下層にありそうです。

7:死生観(S−1) この世に生まれ、この世を去るという事実への自分の見方、解釈、態度です。生きる目的や死の意味などの拠り所をどこに求めるかに関するもの(=「信仰観」)、命あるものの存在意義に関するもの(=「生命観」)、限りある命の中での成長や、生命全体としての成長に関するもの(=「進化観」)などを挙げてみました。

8:運命観(S−2) 運が良いとか良くないとか、自分ではコントロールできない人生の選択についての見方、解釈、態度です。自分を超えた何かに導かれているのではにかという感覚に関するもの(=「天命観」)、言葉を超えた目指すべきビジョンの存在に関するもの(=「求道観」)、人との偶然とは思えない出会いやご縁に関するもの(=「縁起観)」任意とは言え、ここまでくると下層を要素に分けるのも難しいですけど。

9:世界観(S−3) 自分の生きている空間や場の意味に関するもの(=「環境観」)、自分が生きている時間や歴史の中での意味に関するもの(=「時代観」)、自然科学では未だ解明されてないものを含めた世界の全体像に関するもの(=「宇宙観」)など、不可思議の可視化ということで捉えています。この捉え方さえ人生観の一部だねw。

 

icon-adjust 「ゆらぎ」が起こす人生観への波及

人生観図で、人生の出来事での「ゆらぎ」がどのように影響を及ぼすか見てみます。【思創図3】は、友人の死が及ぼす波及の見立てです。

もっとも大きく「死生観」にインパクトを与えます。「なんで、あいつが死んでしまうのだろう?」→「生き死には本当に儚いんだな」といった死生観に加筆・修正となります。これは人生観図の配置において、近隣の要素へも影響します。

→「自分もいつ病で倒れてもおかしくない世代になったんだ」といった読み込み方は「身体観」へ

→「生きていることに意味があるとしたら?」という追加質問は「運命観」へ

→「人の幸せは明日にはない」というに再解釈は「価値観」へ

こんな具合です。

 

人の死ほどの切ない出来事ではなくとも、やはり影響はでます。今度は、勤務している会社でリストラにあってしまった、という場合を想定してみます。【思創図4】

「辞めろということなのか? どうする、このまま耐えるか、条件を呑んで辞めるか」→「俺の仕事はなんだったんだろう」まずは、役割観に「ゆらぎ」が起きます。ずううと仕事中心の生き方を是としていればいるほど、近隣の要素へも波が押し寄せます。

→「辞めると言ったら、妻はどう反応するだろうか?」は、「夫の役割=安定した会社人生」が長く組み込まれているほど男女観へ

→「転職なんかできるのか?いや、無理だろう」は、安定を求めていた価値観へ

→「退職金の積み増しがあれば、何とかいけるかも」は、金銭的な物差しの差し替えを伴って社会観へ

→「これは何か本当にやりたかったことに向かえのサインかもしれない」は、人生の意味を探りながら運命観へ

「ゆらぎ」が作る波は今までの人生観にヒビを入れます。

 

icon-adjust 「ゆらぎ」は人生後半に目立ってやってくる

大まかに言って、人生観の修正を余儀なくされるのは主に人生後半戦です。後半戦とは、80歳平均寿命から見ると40歳ぐらいを過ぎてからとなります。理由は2つ。

1)人生観の要素が出そろうには最低限の人生経験が必要で、そのためには人生そのものの累積時間が必要なため

2)人生前半は可能性に意識を集中できる。人生の自由度が高いので、人生観が固まらないし、その存在自体が顕在化しにくいため

 

「人生の自由度」は世間に出る年頃となる20歳前後がピークとなり、そこからは徐々に下がっていきます。こんどは人生の履歴が重なることで人生観が深まっていく感じです。敢えて断言させていただくと、深まりとは統合度合いです。深まることで、多種の要素に共通のつながりが生まれていきます。「ゆらぎ」が人生後半に向かって質量ともに数を増やしていく中、人生観が深まっていきます。【思創図5】では60歳ぐらいがピークと描いていますが、あくまでもモデルです。人によってはもっと早く、小生のように人間の器が小さめな者は、もし80まで生きられたらの話ですらあるのですが、生きている間にピークを迎えるかどうかも怪しいでしょうね。

こういう流れで見ていくと、やはり、人生中盤(【思創図5】では40歳前で交差のモデル)に「人生の自由度」と「人生観の深さ」に重なりがあるのです。中年の危機( Midlife cricis)とは、まさに人生の自由度に隠れていた人生観が立ち現れる時期です。人生観というフィクションが大きくなって、それぞれの要素間にある矛盾(死生観と社会観が一致してないとか)が起こす葛藤ではないでしょうか。ですから、人生観自体は良い悪いはありません。長く生きればそれなりの人生観を持ってしまうのです。問題はその人の人生観の完成度です。「完成度=深み」によって要素間(ヤスハラの提示した人生観図では9要素)の矛盾や葛藤が取り除かれ、完成が進むとすれば「ゆらぎ」さえ有難い試練なのです。

 

icon-adjust ハツチチ50が「答えのない質問」に積極的に絡もうとする意義

人生前半(ここでは40歳未満)の父親ならば、子供の「人生の自由」をサポートすることがおすすめです。年齢的な体力も十分あり、人生の自由度が高い中で生きているなら、子供により高い「人生の自由」のピークを目指すように鼓舞することにリアリティがあります。「答えのない質問」なんぞはスルーして、「自分で考えてくれ」でも何の問題もありません。問答よりも行動にこそ「人生の自由」の匂いを子供は嗅ぎ取ってくれます。

 

しかし、時は過ぎ、ハツチチ50のヤスハラも人生観が徐々に「人生の自由」に制約を与えるような世代になっております。こうなると、何を言っても存在に裏づけがありません。ですから、「答えのない質問」のような人生観が投影されるようなものにこそ、父の滋味があるのではないかと。もっぱら、子供がいつの日か気がつくであろう「人生観の深さ」をサポートしようとしております。

ポイントは、自分の人生観を押し付けず、「ゆらぎ」に対してオープンな姿勢を伝えていくことです。

例えばこんな感じ・・・・

「人は死んだらどうなるの?」(死生観)→「トーチャンも小さい頃からずうっと考えてきた。みんないろいろ言うし、それぞれ正しいような気がするんだ。きっと、一人一人答えが違うんじゃないか? 」

「お金はどうして大切なの?」(社会観)→「トーチャンは何か欲しいものが買えた時、お金って大切だなって思うけど、子供たちと一緒にいるだけでホンワカする時には、お金はそんなに大切じゃないな、って思うんだ。お金が大切かどうかじゃなくて、お金が大切になる時と、お金が全然大切じゃない時と二つあるんじゃないか? 」

「なぜ私は女なの?」(男女観)→「みんな自分がなぜ女か男か知らないんだよ。トーチャンも女に生まれてれば今頃はカーチャンなのかな?それともトーチャンはやっぱりトーチャンなのかな?」

いつも回答は疑問形で終わっております。これらの答えは一種の公案なのです。禅問答とも言えそうです。小生は、人生観図上で起きている様子をライブ中継しているつもりなのです。

 

Go with the flow.

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