「父」を再設定する


先日、妻に向かって5歳の娘が激怒しておりました。娘の主張「お母さんばっかり、お父さんを使ってずるい! 私にもお父さんを使わせてよ」・・・、父親の像が子供にどう投影されているか、伺い知れますなあ。日々、家庭のために身を粉にしていたら、えらいポジショニングになっとるっす(笑)。

 

 

icon-bug ふたつの「子育て家庭の統治モデル」

父親のポジションを規定するのは家庭の中での家族メンバー間との相対関係です。妻と子供との三角形が位置を決めるのです。

<「父という余分なもの」:山際寿一> 父親という存在は配偶者とその子供によって二重に選択されねばならない。 

よって、父親のポジションも100家族100様です。とはいえ、大きく括ってみると、二つの「子育て家庭の統治モデル」があり、双方ともに父親像をある範囲に規定します。

一つは、ヒエラルキー型のモデル。父は仕事。母は育児と家事。家族を代表するのは父。子供を管理するのは母。男性優位を前提とする社会の背景に支えられ、父には権威が付与されていています。「父エライ・モデル」か。まぁ実際のところ、家庭内を仕切るのは母ですから、現場決定権は母にあります。「父エライ・母モットエライ・モデル」か。責任範囲も明確に分担されていた専業制モデルです。

【思創図1】の右側で示したのが、単純化したヒエラルキー型の図です。子を中心(ボトム)とした同心円で階層を表現しています。以前はこのモデルが主流でしたね。どこの家庭もこんな感じだったわけです。家庭内で「なにもしない父」の存在は昭和の香りのポジションです。今や懐疑的なものになりつつあるも、社会では未だヒエラルキーモデルを想定した活動(公的団体の手続き、民間企業での人事、幼稚園・保育園での親の関わりなど)を見ることができます。これは父、これは母、という役割の不文律があります。保守的な色彩も強いので、ここでは「子育て家庭統治モデル」の右派とします。

 

もう一つは、男女平等の社会的な流れをくむものです。父母の役割を対等に見ていくことで、家庭内での「なにもしない父>なんでもする母」を完全是正しようというモデルです。前提としての、父と母の社会的な対等性、家庭運営での合議はもちろん、仕事、家事、育児も原則、双方が同等に行うというのを理想としたものです。父母が対称関係に見えるので、シンメトリー型のモデルと名付けています。

もともと社会自体が筋肉的な仕事が主体であった時には、「父=仕事のみ」は十分に正当性がありました。しかし、工場に合わせて働く製造業から顧客に合わせて働くサービス業への産業構造の変化、インフラとしてのネットが導く男女差を問わない知識産業の台頭、寿命が長くなることで育児・家事専業では経済的には人生を全うできないリスク、などなど。イクメンという単語が一般化していくように、時代の流れとしてはこのシンメトリー型が志向されています。

小生が育った家庭は典型的な【右派】でしたから、当時は「家の中で、なんにもしない父」は市民権を得ていたポジションだったように記憶しております。このシンメトリー型は明らかにヒエラルキー型へのカウンターです。ここでは子育て家庭の統治モデル【左派】とします。

 

 

 

icon-bug あぁ、父はどこにいくのか?

昨今、多くの父親を眺めるにつけ、「父親役に対する父の態度」はある程度は類型化できるのではないかと思っております。ここでは4タイプ【思創図2】に区分しています。【思創図2】そして、このグルーピングには対抗関係にある先述の二大モデルが影響しています。

 

4タイプとは、(Ⅰ)「諦観系の父」、(Ⅱ)「孤高系の父」、(Ⅲ)「超人系の父」、(Ⅳ)「代替系の父」です。

 

(Ⅰ)諦観系

父親像の「かくあるべし」を持っているが、父親業自体は辛いと感じている父。父親像は自分の父の記憶をベースにしていることが多い。ただし、自分の父を肯定的に取り込んだものか、否定的(反面教師として)なのかに関わらりません。いずれにせよ、自分の中にある「父親はかくあるべし」が巻き起こす現実とのギャップに疲労感を覚えつつあるタイプの方々です。自己犠牲感は父親業につきものだし、それこそが良い父親ではないかと自分に言い聞かせる傾向がある(感じがします)ので、諦観系と名付けてみました。

右派左派との関係・・・【右派】で刷り込まれた父親像がありながら、【左派】へ渋々シフトしていく父たち

 

(Ⅱ)「孤高系」

目指す父親像を持たない。自分の父親との接点が少ないために、像を築くだけの記憶がない。(場合によっては両親離婚で母親側で育つ)家庭外での活動の優先順位が高く、なかなか家庭での存在意義を見出せないタイプの方々。徐々に孤高の人に向かっていくので、離婚の可能性も高い(感じがします)。ただし、付け加えさせてもらうと、別にこれが悪いことでもないということです(きっと、良いことでもないが)。大前提としての「父と母がセットであるのが良い家庭」ということ自体も怪しい中、父を再設定するよりは放棄していきたいというのは自然体ですらあります。

右派左派との関係・・・【右派】の古臭さにも、【左派】へ流れていく時代の趨勢にも懐疑的な父たち

 

・(Ⅲ)超人系

目指す父親は自分の父であったり、それさえも超えて本人自身が考えるオリジナルの父親像だったりするタイプの方々。いずれにせよ、自分の父親役に確信を持っている。経済的な余裕があるケースが多い(気がする)。濃い父親を貫けるのは、それなりのパワーが必要ですから、個人的な目線も含んでますけど、超人系とさせていただきました。

右派左派との関係・・・そもそも自身の仕事がツン抜けているために【右派】の強化版に疑念を持たないパワー全開の父。または、進歩的で時代の先端である【左派】を徹底的に極めようとする最前線の父。どちらも既存モデルを受け入れている。

 

・(Ⅳ)代替系

父の理想像を持たないのは「孤高系」と同様。異なるのは、それでいながらも子育てには個人的な(父としてではなく)関心が高いタイプというところでしょうか。この機会を大切にしようという好奇心が強いタイプが多い(気がする)。もちろん、相方(妻であり母)の持つ父親業の理想も緩めということはありそうです。

右派左派との関係・・・【右派】【左派】ともに、自分の関心を満たしてくれるモデルという親近感を感じない父。それでありながら、父を再設定したら面白いことが起こるのではないかと考えている。これを代替系と称してみます。

 

たぶん、もうお分かりなのかと思いますが、小生は明らかにⅣ「代替系」です。実のところ、自分の両親も離婚してまして、必然、「父親とはかくあるべし」への情報が不足している輩です。おまけに、50過ぎての父親ですから仕事も娯楽も長い独身生活でそこそこやり尽くした感があって、家庭という新世界にエンターテイメント性を感じてたりするのでした。

さて、この父親タイプ分けは「世代影響」と「時代影響」という視点でも説明できます。【思創図3】

 

世代影響は主に自分が育った家庭環境、そこでの父のポジションが示す目指す父親像を作るといくものです。先代の父からの影響ですから、今の私たちは昭和的なヒエラルキーモデルの家庭で育っていることが多いでしょう。きっと、その刷り込みが次の父親(=自分たち)たちの父役への態度を作る要因になるだということ、これが世代影響です。

もちろん、刷り込みが「あの父のようになりたい」とは限りません。「あんな父にならないようにしたい」というアンチもあります。どちらも、参照モデルがあるので、自分が父になった時の振る舞いのイメージは明確です。その反対に、そもそも父ってなんだっけ?、といった状態の人たちも増えています。父の存在が希薄なために、参考にする父親像らしきものがないまま本番を迎えてしまうというのは珍しいことではないのです。

時代影響は世間の流れからくる影響です。大きな流れは父の育児参画であり、より外の仕事より家庭内の労務へのシフトが父に要求されている状況です。イクメンという単語に代表されるように、子育ては男女均等の役割に近ければ近いほど、社会的に賞賛される傾向にあるのです。そういう意味では、従来の「仕事さえしていれば良い」わけではないので、時間的な余裕は減っていきます。そこに「辛さ」を感じる 人も多くいます。その反対に、もし時代影響に意義があるとしたら、父は意味深い時間を子供と過ごすことができるようになる、ということでしょう。「あの時、もっと子供といればよかったな」という親離れ・子離れの関係になった昔の父たちとは一線を画すことになるかもしれません。

ハツチチ50は、こういった友人知人たちの後悔から強く影響を受けております。その結果として「父親業と楽しく」しようと心掛けているのです。ですから、イクメンと呼ばれることには違和感があります。時代影響で育児・家事に重心を置いているわけではないからです。外から見ると時代影響のようですが、実は同世代影響なのです。

 

【思創図4】Ⅰ〜Ⅳに区分けされた父の実態をもっとシリアスに、もっと量的イメージで描いてみたものです。あくまでも個人の感覚値でしかありません。どうも「父親像はよく分からない」、「父親業は辛い」が二軸を押し、人数的には(Ⅱ)にかなり偏っているのではないか、孤高度合いが高まりつつあるのではないか・・・そういう意味合いの図です。余計なお世話だと分かっていながら、それぞれの父の心の呟きをキーフレーズで入れてみました。なんか、父が追い詰められている感じを反映したものになってしまいました・・・、すみません。あなたの実感はいかがでしょうか。

代替系の父の一人として、「父の再定義」はとても大切なことではないかと思っております。「父の再定義」ができなければ、既存の二大モデルの葛藤に巻き込まれるのは必定ですし、現に多くの父が渦中に漂いながら滅入っています(ように見えます)。

さて、「父を再定義」するということは、「家庭はどのような形態で運営されるのが望ましいのか?」といった目指す統治像が必要となります。繰り返しますが、成り行きの家庭統治は「他者による父の定義」を使うことになりますから、世代のズレ・時代のズレによる摩擦が起きやすく、「父って辛い」の原因になるのです。

ここではハツチチ50が試している家庭統治を説明し、それをきっかけに「父を再定義」する視点について触れていきます。

 

 

 

icon-bug ふたつの家庭統治モデルが瓦解するとき

まずは、既存の二大モデルの理想と瓦解について見てみましょう。どんな理想にも盲点があり、弱点が潜んでいるものです。この「上手くいかない(=瓦解)」パターンを極小化することが、代替系の家庭統治モデルを考える上で一つの目安になります。

【右派】ヒエラルキー型が瓦解した典型パターンがワンオペ化です。育児、家事、仕事の専業制が崩壊に向かう・・・、仕事はどんどん多忙になっていき、父は家庭のサテライトになっていきます。育児の機会を失えば失うほど、父の育児の業務は慣れないものになり、ますます手慣れた仕事に向かうのです。ついに、母のワンオペ化は父の存在を感情的に否定することになるでしょう。母の被害者意識は父を責め、父は「辛い」家庭から離れようとし、サテライト化とワンオペ化が加速していく・・・。かくして、家庭は分離し、統治を見失う。

 

【左派】シンメトリー型が瓦解すると、合理的だったはずの統治に葛藤が目立つようになります。共稼になると自然と水平分業(男女平等を前提とした育児、家事、仕事)になります。ある意味、あるべき世界に向かっている正しい動きのように見えます。

しかし、課題も発生します。果たして、完全な父母の業務対等などというのはあるのだろうか? 母の存在を二つに分けて「はい、これは父ね」といった移管がありえるのかというと、誰も首を横に振るでしょう。母には、子宮からスタートした不可分な親子のつながりがあるのです。父に業務分担を半分渡しても、存在感を半分にはできないのです。公平感から出発しているはずのシンメトリー型なのに、父母に公平を保証できないのです。

また、合理的であるが故の「セクシーさ不足」も瓦解を加速させます。男と女が所帯を維持するには、ほんのりとでも色っぽさが漂い続ける必要があります。単に、「これはあなた、こっちは私。じゃあ、あれはどっちがやるべき?」といった交渉は確実に機能しますが、本来あったはずの夫婦の色気を消し去る欠点があります。かくして、家庭は対立し、統治を見失う。

<男子劣化社会:F・ジルバルトー>シンメトリーな男女関係はセクシーではない

 

 代替系の父は第三の家庭統治へ

 

さて、小生は50過ぎて父親になった者です。お陰様で、友人たちを通して多くの父親を見させていただきました。ありがとうございます。そこから、それぞれの家庭統治も垣間見ました。感謝です。

個人的に、ずうっと、父親なんて役に立っているのかな、と思っていました。父は種(タネ)と糧(カテ)だけの存在なんじゃないか、そう思うことさえありました。でも、父側が防戦一方な様相を呈している昨今、こうやって父親業をやってみると、辛くなりがちな父はもう少し救われてもいいはずだ、と思い直しております。きっと、ほとんどの人たちが、あまりにも家庭の統治に真剣に向き合うことがないまま父(そして母)になってしまったからではないかと。

代替系の父は「転父」として、「オリジナリティのある家庭統治を試していくべし」、そんな気分で生活しています。ハツチチ50である境遇を皆々様に差し出せたらと願っているのです。それが、このサイトのテーマでもあるのです。

 

 

大まかに示すと、ヒエラルキー型にもシンメトリー型にも良い点もあり、いただけない点もあります。足して二で割るような乱暴なスタイルではなく、機に応じて両サイドに触れながらも、その間に重心がある・・・、それが中庸です。

 

この中庸を取り込む家庭統治(試験導入中)「パース型」には大きく5つの特徴があります。

 

1)最終形から家庭統治を考えるということです。子育ては最終的には子供の自立に向かって一段落します。同時に、父である私も母である彼女も子供と同じように自立します。これは二度目の自立ですから 再立とでも言いましょうか。現在実施している子育て家庭統治もいつかは終わります。つまり、家庭統治のモデルは常に時限立法のようなものと捉えているのです。

ここでのパース型とは奥行き感のある図面の意味を意図した名称です。家庭の最終形を想定し、透視図にしてみてから今を設定してみようという狙いです。父も母も、夫と妻も、最後は「私」に戻ります。それは遠い先かもしれませんし、すぐに起きることかもしれません。この「私」が向かっていくであろう方向を父と母で(いつかは子供とも)共有しておくことが、今の家庭統治の方針に公平感ではなく、納得感を与えてくれると信じております。まぁ、間違ってたら、その時点で修正するだけの話ですけどね。

したがって、収入と支出の関係も長い目で見て収支を考えるようにしました。子育てに集中する時期に持ち出しが多くても(一言で言うと「赤字」ね)、その後、徐々にでも仕事の比率が上がって収入が増えればトータルではOKという考えです。短期的には極端でも、長期的には中庸になっていれば良いのです(お金は使ってこそ意味があるしね)。

こうやって長い時間軸で今の家庭の統治を選択することは、「明日への不安のために今を犠牲にしてしまう」ような生活に歯止めを掛けてくれるのではないか、そんな壮大な(ちょっとオーバー?)仮説なのです。

 

2)仕事の時間を大胆に極小化します。そして、育児・家事に余剰時間を充てる。収入がなくても、長期的にオフセットするという前提であれば、短期的(といっても複数年だけどね)は問題なし、という割り切りです。父は最盛期の10〜20%の仕事量。二ヶ月に1回程度、東京出張で仕事するぐらいに。母は仕事を辞めて専業の子育てと家事。ただし、子育て期間を限定した時限統治なので、その期間中に次の仕事の準備(父も母も)をするようにしています。

 

3)母を子育てに関する意思決定の主務者になるようにしています。簡単に言うと、初動はすべて母。子供に関する外部からの情報、幼稚園からの連絡・保健所からの通知・関連施設からの案内などなど、最初に目を通すのは母と決めています。もちろん、どういうリアクションをとるかは父と母の合議ですが、子育ての最初の態度を決めるのは自動的に母となるようにしています。これによって父母間の見解相違がトラブルにつながらないようにしようとしています。

 

4)父は全面的にサポートへまわることになります。全面的というのは、母の育児・家事のリズムに法って彼女に労務負担が集中しないようにサポートするというものです。育児・家事を機能的に半分 半分にするという決め方は避けています。もちろん、父は何でもできなければいけないというのも高度すぎるので、得手不得手は事前に家庭内調整しておきます。ついでながら、冒頭の娘の発言は、この全面的サポートの風景に根ざしています。(たぶん)

 

5)次の目指したい仕事を想定しておきます。子育てが一段落する頃に、夫婦ともに新たな仕事へ踏み出せるように準備していこうとしています。まぁ、そんなに簡単に新しい仕事が実現できるかどうかは分かりません。でも、想定することで今を意味深く味わうことができます。育児や家事の労苦の奥にある幸せを噛みしめるためには、かなり今に集中せねば難しいでしょう。「こんなことがいつまで続くのかなあ」というのと「こんなことは今しかできないことなんだなあ」では生活の充実感は随分と異なりますよね。ふと子育てで漏れてしまう溜息にも納得感が欲しいのです。

 

 

 

icon-bug パース型をフォーマットで表してみる

現在、試験中のパース型の家庭統治ですが、これをフォーマットに落としてみました。たぶん、こんな感じで日々の生活を送っているらしい・・・・、自分もここで初めて明文化したものと対面しております。

①時限化:統治モデルを期間限定にしておく。子供の成長に伴って家庭統治の仕方は変わる、という前提を確認する意味もある

②集中化:何に家庭運営の価値を置くか、そのために何を諦め、何に資源を集めるかをはっきりさせておく

③展望化:家庭の最終形までは想定出来なくと、次のタイミングではどういった父と母(夫と妻)に向かうことにななるのかを共有する

④規範化:アクションプランに落とす時、肝となる態度や行動を押さえておく。同時に、その目的も明確にしておくと動き易い。

 

なかなか父は「辛い」ものだが、もうひと捻りで光の差し込み方が変わってくるような気もするのでした。

 

Go with the flow.

 

 

 

 

 

 

 

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