父の「慈力(ジリョク)」をショーガナイナー数で計測する


icon-adjust 「親は子供をコントロールできない」というストレス

父親をやってみて感じるのは、きっと誰もが感じていることと思うけど、子育ては大変だということです。体力消耗だけでなく、人生時間の投下、コントロールできないストレスなどなど。「なぜ、人は子供が欲しいと思うのかな?」という原初的な問いをなんども自問するのも無理からぬことです。

そんな中でのハツチチ50は、その年齢的な立ち位置からも分かるように、体力も弱め、人生時間も少なめ、のはかない存在です。ですから、仕事を減らし、住まいを移してまでも子育てに集中できるように生活を変えてきました。(理由はプロフィール参照で)

こうやって時間に余裕があれば(そのために諦めたものも多々あるわけなのだが)、肉体的にも子育てからの疲労回復や、精神的にも子供と一緒の活動に集中できますから、立派な父親の振る舞いに見えます。うむ、ここまでは良い。しかし、父の比率が高くなればなるほど「子供はコントロールできない」というストレスは増える傾向にあります。

親と子は関係性の欲求(マズローの欲求段階説で言えば、社会的欲求区分)で成り立っています。といっても、特に小さい子供の欲するものでは、「お腹すいた」「眠い」(欲求段階では生理欲求)も「抱っこ」「退屈」(安全欲求)も「見て見て」「面白そう」(社会的欲求)も一つの塊のように混ざり合っています。もう現場では分解できないほどですから、何もかもが「親との関係性」となるのです。親から見ると、親子の絆は「よりよい信頼関係が望ましいですね」といった一つの人間関係(社会的欲求)という狭い範囲の関係性でしょう。しかしながら、子から見ると、手持ちの欲求の全てを混載して投げてくるような広い範囲をカバーする欲求なのです。

すると、子から親への関係性の欲求と、親から子への関係性の欲求は微妙に変わっていきます。ここが「今回のお題」のポイントです。存在の全てを関係性にかける子からの欲求を親が受けるには、単なる「社会的欲求の一つを返します」ではまかないきれません。そこで、愛情という言葉が登場することになります。

「親子の愛情」の存在には経験的に異議がないという前提で、この愛情を以下のように分解してみました。かなり単純化したことを承知の上で、親と子の関係性に絡む欲求を説明してみます。

 

まずは二つの「→」の存在です。【思創図1】

子から親への関係性の欲求を「慕力(したう欲求の意味)」でボリョク(暴力じゃないよ、笑)。親から子への関係性の欲求を「慈力(いつくしむ欲求の意味)」でジリョク(これも磁力じゃなからね)。そして、この両方が一致した時、愛情が成立するとヤスハラは考えています。子供が親を慕い(したい)、親が子供を慈しむ(いつくすむ)・・・、なんか、そりゃそうだっぽいけど、現実の生活ではそう簡単にはいかないですよね。少なくとも小生はこの矢印交換の状態には手を焼いた(今もそうだが)くちです。

では、この手を焼くほうの原理を考えてみます。

 

愛情は「はいはい、どうぞどうぞ」と提供できる手離れの良いものではありません。(いちいち言葉で言うなか?)もちろん、親となって、子供との関係性を強化したい気持ちに偽りはありません。子の慕力(ボリョク)は生きる全てです。そこに生理的欲求・安全欲求・社会的欲求などが、ほぼほぼ全部がはいっています(「お腹すいた」「遊んで」「見て見て」などなど)。福袋のようなものですわい。体は小さいのですが、欲求はメチャ重めです。

一方、親の求める関係性に「私」が投影されている場合、慈力(ジリョク)は霧消し、「私」の欲求が混ざってきます(「あーワイン飲みたいけど、無理か?」「明日の資料作りたいけど、無理か?」などなど)。これは子供に向かっての一つの慕力(ボリョク)です。ただし、「親として、自分と子供の関係はこうなって欲しい」的な折り合い感を強調したものですから、理性的には間違っているとは言えません。この辺りに、不純物が混入しやすいという愛情の取り扱いの難しさがありますね。

結局、子からの要求のせいで、親側が持つ他の欲求(「疲れたから早く寝たい」「お金を無駄したくない」「気分良くリフレッシュしたい」などなど)は満たせなくなります。なんといっても、自分の持っている時間や資産を子に分け与えることを期待されているわけですから無理もありません。遂には、自分が考える親子の絆像には必ず葛藤が生まれるのです。

すると、親である 私は自分の扱いが余った欲求を、子供をコントロールする方向で(「寝たいから、子供は寝なさい」「次の電車に乗りたいから、子供は早く身支度しなさい」「おしゃれでいたいから、子供は汚いことはやめなさい」などなど)解決しようと欲しますよね。これらは単純化させていただくと、親から子への関係性の欲求が、子と同様に慕力(ボリョク)となっている構図です。【思創図2】

ああ、残念なことに、子は親のコントロールを原則、受け付けないということです。慕力の対立で事態はますます悪化するのです。

それも自然なことですし、どこの親子関係でも愛情【思創図1】と葛藤【思創図2】が混じり合った日々が常態でしょう。そもそも100%愛情で親子の関係をカバーできないなら、問題はその比率(愛情+対立=100)だとさえ言えます。ただし、お互いの欲求を満たされなくなる状態になれば、対立は葛藤になり、結構なストレスです。

 

 

icon-adjust 恋ならどうだろうか?

少し視点を変えてみましょう。この慕力と慈力の関係は親子に限りません。遡って見るなら、恋愛でも起きている構造でしょう。男女の恋は、たぶん夫婦関係に先立つものですが(たぶんねw)、初期段階の恋愛感情はお互いの慕力(ボリョク)から始まります。「好き好き」が勝手に相手からの慈力(ジリョク)を妄想させることで成立するハニーな関係です。「彼女のそういうところが愛おしい」「彼のこんなところが素敵」なんていうのは強烈な慕力が成せる技であり、恋に落ちることの最大の魅力ではないでしょうか!

 

しかし、慕力が定常化すると、徐々にいつもの人間関係に近くなっていきます。いつもというのは職場や友人のような心の距離感です。慕力があり余れば、そのエネルギーで相手の欲求も飲み込めてましたが、だんだん疲れてくる(飽きてくる??)のです。実質、お互いが自分の欲求に沿ったリアクションで相手をコントロールしようとします。「いいじゃんもう、この店で」「えー、その日は絶対に無理」なんてフレーズが増えますな。【思創図3】

恋の初期にあった共通スローガン「あなたがいいならそれでいい」は慣れとともに風化し始めていきます。当然のことながら、これが高じていけばそれなりの対立ですから、葛藤が生まれてしまうのです。救いがあるとすれば、確かに恋愛のいいところでもあるのですが、もし「葛藤を避けようと思えば会わなければいい」のです。で、次の恋を探しに。ここは親子関係の宿命とは大いに異なります。

 

一方、恋が絆に昇華する方向もメジャーな流れです。とはいえ、恋愛が結婚に発展し、夫婦として関係を継続しようという方向にステージアップするとしたら、ある時点で、お互いが慈力(ジリョク)を出す関係になる必要があります。「あなたがいいなら、わたしが助けましょう」×2を都度、繰り出せる状況です。夫婦とは、相方が繰り出す「慕う欲求」に「慈しむ欲求」で応じ合うフラットな関係です。【思創図4】

ただし、付記せねばならないのは、「慕力が先天性の能力なのに比べ、慈力は後天性の能力」という傾向を持つことです。鍛える必要があるのです(特に男性の場合は必須かと・・・)

 

 

 icon-adjust 慈力(ジリョク)開発のステップ

引き続き、この開発が求められる慈力について考察してみましょう。

人が一人で生きられないというののなら、人の成長とは関係性の成長です。ならば、慕う力と慈しむ力の関係は、人の成長に置き換えても見れるはずです。そんな仮説で組み立てたのが【思創図5】です。

 

慕力は持って生まれた原初的なものなので、そのフィールドを慕界としましょう。典型となるのは子であり、乳児です。100%慕う欲求を関係性に求めて、慕界(ボカイ)をぐるぐる回っています。相対する「父」「母」は、この 慕力からの波動を慈力をによって受けて、愛情という関係を成立させます。よって、慕界を大きく包み込むような円形が慈界(ジカイ)となります。こうやって眺めると、慕力&慈力の見立ては太陽・惑星のようでもあり原子・電子のようです。

そして、その中間を回っている感じなのが「夫⇄妻」関係のイメージです。中間体というのは、先述したように双方が慕力と慈力を同列に出し合って関係を成立させているからです。少なくとも夫婦であり続けるには、慕界の外を回っている必要があります。

 

【思創図6】すなわち、大人である私という個も慕界を中心に回っているのです。さりながら、「私」一人の場面で慕力と慈力の関係性にそれほど気にならずに普段の生活ができるのは、社会のお陰です。「お金による交換関係」や「法律による義務関係」といった第三者的な関係で「私の慕力」を吸収してもらい、欲求を満たすことができているからです。でも、サシで向き合う関係はそうはいきません。この慕界に近づく必要があるのです。 「私→夫」「私→妻」、つまり、すかさず中間体に自分を移動させる能力が夫婦関係を維持するためには欠かせないのです。

 

子の存在が親を誕生させ、父と母という親のレベルになると、子から要求される慕力で慈力はマックスになります。というか、マックスにならざるを得ないのです。ここで100%の慈力が常態になるとも言えます。【思創図7】 一応、図上では父も母も同等に扱っておりますが、自然界ではどうもこのようにキレイにはなりません。私たち父の課題でもあります。

 

ご存知のように、母子の関係性(慕力と慈力のマッチング)は立ち上がりから強く、かつ、どのような状況でも断絶しない柔らかさがあります。これはもうコメントのしようがありませんし、「男であるあなたも、その母子関係でここまで来たんでしょう」と返されればグーの音もでません。母の慈力(ジリョク)は子宮を核にした母体から発生していと思われます。

話は少し逸れますが、うちの5歳の娘とその女子友達に、0歳児を見せると多くの子がわーっと寄ってきて興味を示します。一方、男子達はほぼほぼ無関心です。男女差はこんな小さい時から露骨にあるんだなあ、と痛感させられます。母となる準備は女の子の段階から準備されており、それは肉体的なものだけでなく精神的なものにまで繋がっているのでしょう。

人間関係思創「父子の絆は初期条件で天地の差を生む」でも書かせてもらっていますが、妊娠期から母子の絆はスタートしています。子供からの慕力はへその緒で伝わり、自動的に母からの慈力を引き出すようになっているわけですね。えーっと、その間に父(候補)は何をしているかというと・・・・、ボーッとしているか、母(候補)の腹をさすることぐらいか・・・?。

さて、ここで「父」の本題にやっと入ることになります。

後発とはいえ、「私→夫」「夫→父」という2段階それぞれに慈力アップが求められるようになれば、「私VS子」「夫VS子」それぞれで起きる慈力不足(慕力による対立)は改善される機会を作ってくれることになります。己の慈力が拡張されるチャンスです。

追記しておきますが、この男性諸氏が慈力を身につけるのは親子関係や夫婦関係だけではありません。友人関係にもうっすらとした慕力と慈力の相互交換があります。また、上司部下や師弟関係でも、これまたうっすらではありますが、下からの慕力に上からの慈力が発生します。経験としての場はたくさんあるのです。(男女を問わない、人間共通の場だけどね)しかし、強制的に生じるものではないため、慈力を育むかどうかは個人差があります。正直なところ、小生は友人も少ないし、組織での上位職の経験もほとんどないので、世間で培った慈力はショボかったとここで告白せねばなりません。

 

 

icon-adjust 新たな生活指標「ショーガナイナー数」を導入するということ

こういった向き合うことを強く要求される人間関係では、不足しがちな慈力をいかにして出し入れできるかが重要な能力になります。そして、父子関係はその修練そのもではないかと。慈力を100%コントロールできるようになるのは難しそうですが、いくばくかでも慈力に意識を向けることができるようになることはできます。相手の慕力を眺め、自分の慈力の出具合を見定めることで、どういった人間関係なのかに気が付ける能力、・・・・魅力的な響きですよね。父子の関係にこそ原石が眠っているとしたら?・・・これはチャレンジする価値がありそうです。

しかし、問題は見えない慈力を把握することです。そもそも計測なんてできるのか?

そこで、間接的にでも慈力を見えるようにしたものが「ショーガナイナー数」です。まさに、「あーあー、こんなにこぼしちゃって。ショーガナイナー」「おいおい、これじゃあ完全に遅れちゃうよ。ショーガナイナー」の「しょうがない」です。思わず口ずさんでしまう受容と諦念の混ざったセリフ、それが「ショーガナイナー」。【思創図10】

崇高な慈しみをヨタなセリフで類推するという、大胆不敵な試みと申せましょう。

この「ショーガナイナー」は子供の慕力が引き起こす「私」への不利益を「父」の慈力で消すことを象徴したものです。兎にも角にも、親が子からの関係性が求められれば求められるほど、そこに応えるためには自己犠牲(慈しみ)が欠かせません。もし、ここを自分の慕力だけで強く返せば対立が生まれるの必至であり、【思創図2】で説明した通りです。対峙は葛藤を生み、精神的なエネルギーを浪費することに繋がっていくのです。

そこで敢えて、この「ショーガナイナー」を量的に最大化させることを意識していくことを提案しています。最終的には・・・・

 

①双方の慕力対立が生むエネルギーの消耗を減らすことができる

②父子の関係性に愛情(らしきもの)を注ぐことで、信頼関係を高めることができる

③慈しむ力を意識できるようになうことで、対人関係をより客観的にできるようになる

 

・・・・なんていう人生メリットも期待できます。

 

さて、このショーガナイナーは数が重要です。そう、まずは単位時間当たりの口ずさみ数なのです。朗報なのは、子育てに時間が割けない父であろうとも、子供と一緒にいる単位時間当たりのショーガナイナー数は十分に追いかけられる指標ということでしょう。

実感知ですが、このショーガナイナー数はある一定のピークを迎えると、あとは減っていく傾向にあります。もう言う必要がない地点を通過したことを意味します。「まあ、このくらいは許す」「まあ、このくらいならやってあげるよ」という変容した父のメンタリティにとって、もうショーガナイナーは言わなくても織り込み済みになっているのです。慈力が拡張された証左であり、慈界に安定的に身を置けるようになったとも言えます。

ですから、まずはショーガナイナー数を稼ぐために「私」の態度を改めるというのは、本来の愛情の姿からは邪気満載だとしても、いつしか「慈しむ力をもって自然体で相手の慕う力を受け入れられるようになる」わけですから全然OKだと思うのです。

 

 

追記:弱い慈力も究極はキリスト教のアガペー、仏教の大慈大悲へ通ずる一里塚でしょう(あくまでも個人の感想です)

 

 

Go with the flow.

 

 

 

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