人生解放学・・・その5【万物流転の速度】

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そもそもの話、人生観をほおっておくと、どうして人生に問題が湧き上がってくるのか? それは「万物流転の速度に人生観の流転が遅れをとる現象」が起きているからです。そんなお題の人生解放学です。

 

 icon-search-plus 人生解放学と人生動体線について

毎回ですが、すべてに先立つテーマ「人生解放学」の解説から。

「今を生きることが人生であり、それを支える過去からの視点が人生観」と定義してみることにしています。人生だけが現場であり、ノンフィクション。人生観は過ぎ去った記憶であり、フィクション。そういう見立てです。ただし、フィクションといえども人生観は人生を人として生きるために不可欠であり、不可避な存在でもあります。過去も未来にも意識がまたぐようにして「今」を生きているのが人だからです。人生とセットなのです。それを図示するなら、陰陽のような関係です。【思創図1】

 

人生解放学は、人生を人生観から解放するための生活思創を体系化しようとする試みです。

さて、先に述べたように、人生観は人生とセットですから、人生観の存在自体は必須となってます。よって、いきなり人生観が問題を起こすことはありません。人生観が古くなった時、人生選択にバイアスをかけ始めるのです。「今」を生き辛くしてしまうのです。

「私は・・・な人だから、こうすべき」「あなたが・・・なら、こうすべきではない」といった「べき・べからず」という強い判断は、ほぼほぼ古くなった人生観が固化した不動の信念から出てきています。過去に積み上がった特定の経験が、特定の知識が刷り込まれてできたかなり強固な自己判断の基準です。で、これが「物語」と呼ばれるものなのです。人生観の中の最奥地にある岩山です。それは年齢とともに年輪がごとく増加していく傾向にあります。どんどん過去の記憶が規範となって「今」を生きていくようになるのです。壮年、老人と歳をとるにつれて頑固になりやすいのは無理からぬところなのです。自分も含めてね。

「物語」が過去を幾重にも結晶化させてできた岩のようなものだとするなら、「天命」は未来からの微細な振動を人生に与える囁きです。深い霧の向こうの標識のようなものです。「なぜか、・・・という生き方を選ぶ」「敢えて、・・・を体験してみる」といった説明のつかない人生選択があります。直感と呼ぶこともあるでしょう。単なる気まぐれかもしれません。

しかし、「どうも、こっちの方角を目指せと言われているような気がする」という無視できない選択肢が現れて、手持ちの人生観を無視するように迫る場面は誰にでもあるのです。実際に選択に至るかどうかは別にしてね。友達と砂場でトンネルを掘ったことを思い出してください。どんどん手で土を掻いていくと、ある時点で、指先の土がボコッとなくなり、反対側の友達の手と触れます。友人とは「天命」のことであり、あなたはおっかなびっくり未来という土を掘り始めるのです。予感を頼りに疑心暗鬼ながらも未来と通じてしまう感覚に、「ああ、自分が生きる意味はこの道だったのか!」という人生の展望が開けます。「天命」は、あなたを未知の未来から新しい人生の展望に導く存在なのです。(予感と予兆の展望への導きについては【漂泊術】で)

もちろん、あなたが「天命」の誘いを受託するかは分かりません。ただ、どうもその誘いすらスルーしてしまう人が多いような気がします。硬くなった人生観が天命の囁きをブロックしているようなのです。

「天命」と「人生」を一致させる。結果的に、「物語」も含めて「人生」が一本に繋がる。それが、「今」を生きることに意味を与える唯一の道ではないでしょうか?、っていう提案が人生解放学のゴールイメージです。「物語」からの影響を限りなく最小限にして、「天命」からの影響を限りなく極大化するはその方法論です。

あっと、気をつけてね。この話もまた分類上はフィクションだから。だからって、身構える必要もないけど、そもそも言葉、図表、数式に置き換えること自体がすべてフィクションなのです。文学は当然だとしても、哲学も、自然科学でさえも。人が人に伝えようとしているものはすべて「今」を一旦離れて、フィクションの形式であなたの目の前にいるのです。人生解放学は、あなたの人生観に影響を与えようという意図はあっても、「物語」の策定に加担したいわけではありません。ほどほどに眺めていただければ幸いです。

 

人生と、人生観の影響範囲を一本の線で眺めたもの、それが人生動体線です。【思創図2】「今」を中心に左側に過去の生き方、右側には未来の生き方を3個づつ配置したものです。人生解放学では扱いやすく・・・

3(左側の過去)+1(中央の今)+3(右側の未来)=7(人生動体)

・・・としてカチカチっとした段階で分けています。7にも含意があるのですが、ここでは触れないでおきましょう。詳しくは人生解放学の【予感術】で。

 

お待たせしました。本題「万物流転の速度」に入ります。

 

icon-search-plus 万物流転と人生観の流転

<行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。>「方丈記」(鴨長明)

人生は日々流転しています。万物が流転しているからです。地球は太陽を回り、太陽系は銀河系を回り、きっと銀河系もどこかを回っているのでしょう。「今」と言った瞬間に、「今」は過去となり、新たな「今」が立ち上がってくるのです。すべての物事が変化し続けているのが常態、それが万物流転です。もし、この流転を時間と見てしまうと、「私」が時計を眺める側にいるかのように錯覚します。しかし、実態は「私」も「今」も「時計の部品」も「時計の針」と同じように変化しているのです。万物流転の一部として。生活の中では「時計の針」の動き以外には気づかないけどね。

さて、人生観も万物の一つですからね、本来は同じ速度で流転するはずです。ところが、この人生観は万物流転のスピードに対して遅れを取りやすいのです。例えば、「あー、あれは失敗だったなあ」といった評価をしたとします。よくありますね。この評価は人生観によって出てきたものです。成功ー失敗の基準は過去の記録と記憶に沿ってジャッジされてるからです。ジャッジしている間、あなたの意識は過去に飛んでいます。「今」を少しだけ離れてしまっているのです。人生観があなたを過去に引きとめようとしている、とも言えます。そして、往々にして「あー、あれは失敗だった」を頭の中で繰り返してしまうのです。過去に生きてしまう分量が増えていく・・・。

もし、人生観が同じ速度で流転してくれたらどうなるでしょうか?人生観が変われば、「これは意味ある出来事だった」かもしれませんし、「まぁ、よくあることだ」ぐらいの終わる話なのかもしれません。記憶は流され、「今」に意識を戻すことができます。ある出来事を新しい視点で再解釈できるようになるっていうことは、そう、人生観が流転してるってことです。【思創図3】の上図

 

しかし、「あー、あれば失敗だった・・・失敗だった・・・失敗だった」、ぐるぐると何度も何度も頭の中で反復する時、過去が主で「今」が従の関係になっていきます。評価パターンが「今」を乗っ取ってしまう状態であり、【思創図3】の下図になります。人生動体線の左側に「今」が取り込まれるのです。万物流転の速度に人生観の流転スピードが遅れをとっていることになります。

 

過去が気になりだすと、人生観の流転は減速を強めていきます。だんだんと動かなくなるのです。同じ評価パターンが頭の中で繰り返され、後悔は苦悶に、苦悶は悲嘆にと強め強めにと変わっていきます。今度は、後悔や苦悶や悲嘆が出来事として記憶に加筆されることになります。「私は人生選択でミスをした人」という回顧パターンにバージョンアップされるのです。人生観は硬化し、流転を許さないところにまで行き着きます。そして、ますます万物流転速度から遅れをとることになります。【思創図4】中図

遅れは遅れを呼びます。自分の人生をレビューするような場面で回顧が再生します。、未来に怯え、遂には、「私が人生選択でミスを冒しそうなものは全て排除すべき」といった物語(=私を規定)に結晶化させてしまうことになります。もう、過去のミスに関連した人生選択は何もかもNGです。そうやって「今」は物語に包み込まれ、未来の選択は自動的に狭まっていくのです。物語が主となった人生観は動こうとせず、流転を止めた状態です。【思創図4】下図

さてはて、動かない人生観はそのままでいられるでしょうか? 何と言っても、これは万物流転の法則に反する行為です。万物は必ず流転しますからね。

 

 

icon-search-plus 「自由と安定」の分離が人生に降りかかる!

「今」が過去に包み込まれる、つまり、人生が人生観のフィルターだけを通じて未来を眺め始めると何が起きるのかというと、「自由と安定」の感覚が乱れてきます。

「自由と安定」は対極性を持っています。お互いが矛盾した関係を持っているのです(=polarity paradox)。自由な時は不安定です。安定な時は不自由です。不安定でないと自由になれないとも言えますし、不自由でないと安定は得られないとも言えます。自由と安定を両立させることは難しいはずなのですが、人はできれば自由でありながら安定した状態を願います。矛盾を承知で「自由と安定」を同時に手に入れようとするのです。

もう少し異なった視点で話をすると、この「自由と安定」は、生きとし生けるもの全てに共通したテーマのようです。生物たちは未知のものにと出会うと「戦うか逃げるか(fight or fly response)」のどちらかの態度を取ろうとします。戦うとは、不安定を覚悟で自由を獲得する賭けです。逃げるとは、不自由を甘受しても安定を獲得しようとする衝動です。

ただし、同時に入手しようとする欲求は人間だけなのかもしれません。自由を感じている状態があるとします。すると、人は徐々に自由に慣れ、今度は自分が不安定だと感じてきます。不安定から逃れようとするために、安定している状況を求めます。安定を感じている状況も長くは続かず、不自由を感じ始めます。不自由から逃れるために、またもや自由を求めるという循環です。

友達と遊ぶ(自由を感じる)→そのうち盛り上がらなくなってくる(不安を感じる)→家に帰る(安定を感じる)→家族と一緒の鬱陶しさが嫌になる(不自由を感じる)→部屋にこもってゲームで遊ぶ(自由を感じる)→そんな自分に不快な自分に気づく(不安を感じる)→やおら、試験勉強を始める(安心を感じる)・・・・なーんて若きころの日々、いつものこってす。

じゃあ、時間長めにこんなのも。会社に就職する(安定を感じてる)→つまらない仕事に拘束されている気がする(不自由を感じてる)→会社を辞める(自由を感じている)→あてもなく、フリーランンスで働いてみることにする(不安定感じている)→フリーランスで仕事が回るようになる(安定を感じてる)→長く続けていると、仕事にだんだん飽きてくる(不自由を感じる)→現在・・・・って、小生のことじゃないですか!

 

「自由と安定」は「戦うか逃げるか」と同様、その場その場の選択はどちらかになるのが特徴です。ですから、循環図はの絵柄で表現できます。「今」に集中して生きていれば、この「自由と安定」(同時に、不自由と不安定)は統合されているように見えます。実は、なくなったのではありません。コンパクトになって「今」の内側で回っているだけなのです。さっきの子供時代のように「今」に生きている限り、は「今」の範囲に存在します。飄々と次のプロセスに移っているわけですから、不安定の苦悩やら不自由さの葛藤の深刻さとは無縁です。むしろ、動力の一部ですね。【思創図5】上図

ところが、人生観の影響が高まれば高まるほど、途端に「自由と安定」の二項対立が目立ち始めてきます。不自由さと不安定さが気になりだし、そこから逃れようとするための行動を取ろうとするからです。「私の人生はこんなんじゃない!」、そして、次の「こんなんじゃない!」、またもや「こんなんじゃない!」・・・。逃げるのが目的と化してしまうのです。【思創図5】下図

再確認したいのは、人生観は過去のデータが信念になったものです。分解すると、過去からのいきさつに「今」が巻き取られてしまうという原理です。「今」はいつでもニュートラルであり、リアルな人生なのです。そう、同じ場面でも「自由と安定」を感じたり、「不自由と不安定」と思ったりする体験は誰にでもあるはずです。

例えば、「山登りで遭難しかけて、吹雪の中を小さな山小屋で一夜を過ごす」と「麓のゴージャスなホテルで過ごしてから登山し、吹雪の中の小さな山小屋で一夜を過ごす」では、同じ山小屋でも「今」の気分は随分と異なるでしょう。同じ場面でありながら、前者は「自由と安心」、後者は「不自由と不安定」に振れてしまいます。つまり、過去がジャッジしているわけです。山小屋は山小屋でしかなく、吹雪もあれば晴天もあるだけの話だったのです。

そう、「自由と安定」の分離問題は、「今」に至る過去からの経緯の問題です。過去の記憶が震源地となって人生に影響を及ぼすマグニチュードがどのくらい大きくなるか、です。

では、大きく4区分でこの人生観流転のの遅速が生む「自由と安定」の分離を考えてみることにしましょう。

 

 

「人生観の流転速度がほぼ万物流転の速度」

「今」に集中して生きている状態です。つまりですね、万物流転と一体。「自由と安定」は「不自由と不安定」とともに、「今」の中に意識があります。二項対立の不具合が噴き出すようなことがないのです。不自由さは「飽き」レベルで次の自由へ、不安定さは「惑い」レベルで次の安定へ。意識が流転していく、万物とともに。誰にでもありますから、大げさな話ではありません。子供の頃は誰だってそうだったし・・・、そう、「夢中」ってやつです。いつから「今」に集中できなくなっちゃったんだろうね?

大人のための典型的な「今」へ集中の処方は、好き、フロー、瞑想の三つです

・好きことなら誰だって集中できます。「今」に居続けることができるのです。好きなことだけしなさい、っていう主張は確かに理にかなっているのです。まさに「自由で安定」と共にいる状態です。ただ、好きなことを設定すると好きじゃないことも同時に現れてくきます。残念ながら、四六時中好きなことだけとはいきません。やはり不自由さや不安定さを感じる時間帯も発生してしまうのでした。「好きなことをやるべき」という新たな物語のせいだね。

フローは忘我の状態であり、ゾーンと呼ばれたりするものです。たまに「入っている」なんて表現する人もいます。スポーツでも仕事でも、ある一定以上の意識の集中が継続的に続き、なんの苦もなく最高のパフォーマンスが発揮できるような心理状態です。心理学者のチクセントミハイの「フロー体験」がその解説の代表格です。フロー状態まで来ると人生観の出番がありません。言葉に頼った判断が必要ないのです。なので、フローとは「自由と安定」と「今」が渾然一体となった動的な心持ちと言えます。まぁ、難儀な部分もあって、長くは続かないんですよ。

瞑想は、思考を抜け、意識を無心に集中することです。結果、「今」に居ることになります。過去も未来もありません。頭の中に雑念が現れても、追うことなく、ただ消えゆくのを眺めるだけです。不自由さへの苛立ちも、不安定さへの心細さも流れ行くものの一つでしかありません。人生観の影響がほとんどないため、「自由と安定」の分離さえもスッと凪いでしまう静的な心持ちです。ちなみに、マインドフルネスは瞑想よりは広義で、「今」に集中する状態全般です。美しいものを愛でる、自然に身を委ねる、料理をする、掃除をする、なーんだ普段の生活じゃん・・・。が、意識の集中となるとやや怪しいのが凡夫の悲しさです。わざわざそこに意識を向けるわけですから、真摯な態度が要求されます。

 

 

「人生観の流転がやや遅め」=「評価」が「今」を代替

ちょっと生き方に隙を見せると、間髪入れずにやってくるのが人生観が主催するジャッジ・ゲームです。買い物で評価が高いものが「選ぶべきもの」とな判断することはありませんか? 小生は頻繁にあります。モノが溢れるようになり、選択肢が多すぎるなら、どうしたって手っ取り早く選び取る工夫として「沢山の人がいいと言っているものはいい」という基準で動きたくなります。

では、人生の選択はどうでしょう? みんなが良いと言っている仕事を目指す、みんなが良いといっている学校を目指す、みんなが良いと言っている人生を目指す・・・、そこには「今」はなく、過去にみんなが押した「イイネ」があるだけです。きっと、みんなが良いと言っているわけだから、「自由と安定」はそれなりに両立できるだろうというジャッジです。さて、やがて、他者の判断に人生を委ねるのを良しとする人生観に固まっていきます。「みんなが自転車持ってるから僕にも自転車買って!」の「みんな」みなたいなまとめ方です。

たぶん、蜜月のような時期もあるのでしょう。「おお、・・・・に勤めてるの、イイネ!」「ひゃー、・・・・な人と結婚したのね、イイネ」なんか、軽く「ふふ〜ん〜」って気分になっちゃいますよ。「自由にして安定か?」という瞬間でしょうか。しかし、万物流転でごわす。だんだんと「今」から「自由と安定」の分離が目立ってきます。当然、みんなが良いと言った道を選んだのに、不自由さを感じたり、不安定さを感じるようになると揺らぎます。「え?、イイネのはずなのに、この不安定さはおかしいじゃん」「ちょっと、イイネのはずなのに、この不自由さはどうしてなの?」と選択後の不具合へクレームが始まります。人生の選択ですから、買い物での不良品を返品するような解決ができません。もし、そこから逃げるために、また誰かの評価を参考にする人生観しか持ち合わせてないのであれば、「今」はますます「評価」に乗っ取られていくことになります。「こんなはずじゃない」の

 

 

人生観の流転がかなり遅め=「回顧」が「今」を代替

人生の成功に固執する、失敗を嫌悪する、まあ、一般的な話に見えます。でも、成功を押しているのは、人生観である可能性が高いのです。起業してビジネスで成功する、大きな会社で出世して成功する、ナイスなパートナーの伴侶となって成功する、これらの成功は皆、他者との比較から生まれた序列のことです。成功は他者比較での序列の上位、失敗は序列の下位といった物差しは人生観そのものです。

起業も出世も伴侶もニュートラルです。ただ、成功・失敗だけでその内容を裁決するのは少々乱暴です。「これが成功だ」というジャッジには「誰よりも」という物差しが隠されており、なかなか気がつくのが難しいものです。確かに、「評価」に振り回されているよりは、その動きはダイナミックで能動的でしょう。

ここでの成功の意味は「自由と安定」の同時獲得です。成功すれば、不自由も不安定もなだれ込んでこないはず、という見込みです。人生選択での成功とは、お金がいっぱい入るとか、広く名声を得るとか、高い地位の役職に就くとか、この辺りが人生での成功の定番でしょうか。残念なことに、これらは過去に成立した(ように見える)成功の方程式でしかありませんす。お金がたくさんあれば自由でありながら安定したような気になります。広く名声を得たならできることの自由さが増して安定した存在になれるような気がします。高い地位の役職であれば自由を行使できる権力と人々からの敬意に安定を感じるような気がします。

ところがです。「自由と安定」はN極とS極の磁石な関係ですから、これを接着させるには大きなパワーが常時必要となります。そして、お金いっぱいはより多く欲しいへ・ビッグな名声はより広くなって欲しいへ・高い地位はより上の頂点が欲しいへと、エンドレスに続きます。その間、他者比較しないと説明できない不自由さ・新たな他者比較で抜かれるのではないかという不安定さに揺らぎ続けることになります。「誰かよりも」が消えないなら、やはり「自由と安定」の合一は見果てぬゴールです。

 

 

人生観の流転が止まった状態=「物語」を「今」が代替

「物語」に生きるとは、「規定された私」から逸脱しないで「今」を過ごすということです。物語は「・・・すべき」「・・・すべきでない」といった強い制約ですから、未来の人生選択は過去の反復となります。むしろ、人生観が止まった「物語の私」から見れば、万物流転は不謹慎な動きにさえ見えます。

「男は働くべきだ」という仕事観(人生観の一つ)に対して、「いやー、育休を目一杯とらしてもらって、助かりました」という態度には、不安定さを与える不愉快さを感じます。「何言ってんだ!」的なネガティブな反応を取ってしまいがちです。「仕事で周囲に迷惑をかけてまで、子育なんて」とか? 「男は働くべきだ」が成立している限り「自由と安定」は守られると信じているわけですから、その均衡が破られるような現象は排斥せねばなりません。そして、自分の声に自分自身が肯定された気がして、「わしゃ正しい!」的な教条主義が「物語」を再強化してしまいます。

「私のキャリアは尊敬されるべき」というのも同様です。誰かの「そういう経歴ってもうどうでもいいよね」というようなネットの書き込みは気になります。はっきり言って、忌々しいのです。「そういう人もいるよね」的な受け流しができないのです。どうしても、自分が獲得した「自由と安定」の気分を害する敵対者に思えてしまうのです。こうなると、全く関係のない事象も自動的に結びつけられます。「おはよう」の挨拶でさえ、「あの人の声のトーンは冷ややかだ。きっと、自分を見下してるからだ」ぐらいまで繋げて、不自由さや不安定さに身を浸すようになったりします。

このように「物語」は「自由と安定」を統合する理念として君臨しています。そして、周囲からの反物語な言動や姿勢に対して、攻撃や回避、はたまた無視といった大人気ない態度を「私」にとらせます。「今」は「物語」に覆い隠されてしまうのです。そうはいっても、あまり糾弾できないですけどね。小生も50歳を過ぎて、さすがに薄まってきたものの、「物語ゼロです」とは言い切れずに生きております。自分でもどこに埋めたか分からない地雷だらけっすよ。

以上、大ぶりの4区分をさせていただきました。【思創図7】で再整列です。

さて、こう見ると3つのことが浮き上がってきます。

①そもそも人生観は万物流転の速度についていけず、人生観を外した「今」だけが同速で流転できているということになります。

②人生観は過去からの影響だが、弱い過去(評価に生きるパターン)から強い過去(物語に生きるパターン)までグラデーションがある

③特定の区分だけでは過ごせない。万物流転が創る「自由と安定」の分離度合いは、区分ごとの時間配分にリンクする

 

 

 icon-search-plus 人生観流転への道筋、私設コスモスから万設カオスへ

「物語」→「回顧」→「評価」→「今」と言った具合に、時間の配分傾斜をなんとかシフトさせていきたいところです。本心は、「今」だけに生きるぜ=人生、イェーイ!、ってことなんだけど、この娑婆ではそうはいかんです。人生観の流転100%を狙って、瞑想、フロー体験、好きなことだけにします・・・、ってフォーカス当てた瞬間に「瞑想すべき」「フロー体験すべき」「好きじゃないことはすべきじゃない」が揃ってくるのでした。「今」に拘泥すべきという「物語」の誕生です。うーん、まずいな。

じゃあ、どこかに手筋らしきものはあるのか?

まずは、スタートラインの確認。

過去に執心しながら「今」を生きることは、日々の生活が万物流転に追い詰められている感じがします。「不自由と不安定」から逃れるための果てのない循環に疲弊していくのです。「あー、いつになったら楽になるのだろうか。今は楽をしてはいけない、がんばらねば」、「そのうち、一段落ついたら好きなことをしよう。今は好きなことをしてはいけない、もう少しだ」、そんな今日この頃が延々と続くのでした。【思創図8】

誰も追い詰めてなく、単に自分で追い詰められてる感じを生み出してしまっているのはどうしてなんでしょうか?。それは、過去だけで自分の人生を秩序立てて説明しようというコスモス(Cosmos)を手放せないでいるからです。自分の信念の範囲だけで作った宇宙であり、中央図書館です。コスモスはあくまでも私設コスモスなのです。

 

人生観が「今」を固く包み込んだ状態は、「私は、私の人生の完成図を眺めている」を意味します。「私」が主語というのがいかにもイタイのではありますが、「私の人生は私のコントロール下にある!」と宣言していることは間違いありません。「わ・た・し!、わ・た・し!」、シュプレヒコールさえ聞こえてきそうではありませんか。ええ、布告した瞬間に万物流転によって「不自由と不安定」の嵐に曝され、集会は即刻中止になるわけですが・・・。

では、ゴールはどの辺にあるかというと、剥き出しの「今」を創ることだと考えています。小さな秩序である「物語」「回顧」「評価」を大きな混沌で洗い流すのです。そう、大きな混沌とは万設カオスであり、小さな秩序とは私設コスモスのことです。

 

さて、そこで。人生観をほどよく柔らかくしておけば、きっと万物流転が自動的に押し流してくれるだろうというのが人生観流転のポイントではないかと考えるのです。洗い流されて「今」が露出してくるだろう、と。さすれば、「今」の時間が増え、結果、「自由と安定」は一旦収束してくれます。

もちろん、たまに「物語」などの私設コスモスが起動して、「不自由や不安定」が増幅するようなこともあるでしょう。でも大丈夫。未来と「今」が地続きになる累計時間が多くなりますから、「天命」に気づいて「自由と安定」がどうでもよくなるような人生に流転していくやもしれません。「はっ!、この道に進めと言っている気がしてならない」、全く新しい展望と期待が膨らむ瞬間です。

いや、「天命」を待たずとも、万設カオスはすぐにやってきます。小さな秩序は大きな混沌に飲み込まれるのが必定なのです。要は、流れに身を任せることです。自由は未来に、そして、安定は過去に棲み分けられることでしょう。「それもありだね」、「きっと何か意味があるのだろう」、無秩序という秩序を感じてみるだけです【思創図9】

ただし、ゆめゆめ人生観を思考で流転させようなどとは思わないことです。まぁ、思ったところでどうしようもないんですけどね。「人生観流転すべし!」は、すでに流転速度が止まりかけている証だからさ。

では、その私設コスモスを流して、万設カオスへ入っていく手順へ向かいましょう。

 

この人生観を柔らかくすることで、万物流転が「今」をツルッと剥き出しにしてくれるのです。優しくね。【思創図10】では、人生観を支える代表的な3要素「世界観」「価値観」「死生観」に関して信念マッサージをかけてあげる手順を示しています。小生は以下のような範囲で要素化しています。

世界観は、「私」の周囲に関する存在と動きについての秩序です。

価値観は、「私」の選択していくことに関する私の志向と優先順位の付け方の秩序です。

死生観は、「私」の始まりと終わりに関する私に納得感を与える秩序です。

秩序はすべて私限定の小さなものであり、私設コスモスでしかありませんが、日々の生活(=人生)に欠かすことのできないものです。また、ここでは、広げる・深める・混ぜるを硬くなった人生観の揉みほぐしの中心ということにしています。

 

⚫️世界観のマッサージ:世界はどうなっているかに関する秩序を支える信念群を和らげる

・世界観を広げる:生活の場を変えることで、場が持つ固有の習慣をずらす。例えば、海外で暮らすとか、田舎に移住する

・世界観を深める:学びによって知識を深めることで、生活の舞台背景をずらす。例えば、世の定説を否定する本を読む、無縁だった遊びや趣味を体感してみる

・世界観を混ぜる:新たに人と出会うことで、人間関係のネットワークをずらす。例えば、行ったことのない国の人と生活を語り合う、会う機会の少ない世代の人と一緒に過ごす

 

⚫️価値観のマッサージ:人生選択時の優先順位のつけ方に関する秩序を支える信念群を和らげる

・価値観を広げる:偶然を取り込むことで、客観的で合理的な視点をずらす。例えば、バッタリと昔の知人に会った意味を考える、迷ったら考えずに一番最初の候補を選ぶ

・価値観を深める:他者への慈愛を増やす選択をすることで、プロセスに価値をずらす。例えば、子供への親としての指示を半分にする、定期的に寄付をする

・価値観を混ぜる:敢えて損を選択することで、価値の方角を損得からずらす。みんなのために率先して役割を担う、選択肢の中で一番キツそうな仕事を選ぶ

 

⚫️死生観のマッサージ:私が始まった意味と、いつか終わることへの受け入れに関する秩序を支える信念群を和らげる

・死生観を広げる:身近な死に正面から向き合うことで、死の曖昧な規定をずらす。例えば、自分が死ぬ間際に見るものが何かを想像する(病院の天井だとしても)、知り合いの死がくれた自分へのメッセージは何かを考える

・死生観を深める:身近な生に関わることで、生の曖昧な規定をずらす。例えば、機会を作って赤ん坊を抱く、この家族に生まれた意味があるとしたら何かを考える

・死生観を混ぜる:メタファーで親しみやすくし、深刻さからずらす。例えば、一生を一日24時間で喩えて今何時かを見る、スポーツの試合(サッカーや野球など)であと試合がどのくらい残っているかを語ってみる

 

記載しているのは、人生観の主要三観「世界観」「価値観」「死生観」しかありませんけど、「人間関係観」や「身体観」や「結婚観」など、人生観には多種多様なサブテーマがあります。個々人がそれぞれ流転が遅そうなものを柔和にしてみることをオススメします。大雑把に言うなら、あなたが怒ったり、嘆いたりすることが多い出来事には「遅れつつある人生観のサブテーマ」が下敷きになっているものです。

ともかく最終地点は、人生観が揺らいで「人生の選択の基準がよくわからなくなってきた」という混沌とした感覚なのです。「もういいや、あとはお任せ」という気分になれば、きっと人生観は流転しています。「自由も安定」の分離も「不自由と不安定」の葛藤も受け入れられる構えになっているのです。

 

 

Go with the flow.

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